こころの近さを考える―寄り添うこと、寄りかかること
どんなことでも、物事には距離がある。
昨年、父方の祖母のたしか7回忌があった。
祖母とは生前もあまり親しくなかった。こころの距離が遠かった。
法事に臨んでもその距離は近くならなかった。むしろ、幼い息子を連れて実家へ帰らなくてはならない用事が疎ましかった。その意味では、祖母との距離は遠くなった。
また、先日は妻が息子を連れて法事のために実家へ帰った。
私はひとり我が家に残されることになったのだけれど、その時は普段以上に妻や息子のことが頭にあった。私と家族の間の距離は近かった。
距離には2つの意味がある。
1 二つの場所や物事の間の隔たり
距離(キョリ)とは - コトバンク
2 人との関係で、相手に対する気持ちの上での隔たり
一応、先のものを物理的距離、後のものを心理的距離といえるだろう。
この2つは相互に独立した関係を持つこともある。
- 先程まで仲良く会話していたけれど、些細なひと言に距離を感じた。
- 住む場所が変わっても、友達であることに変わりはない
一方で、この2つの距離は比例したり反比例したりする。
寄り添う、という言葉がある。
ぴったりとそばに寄る
寄り添う・寄添う(よりそう)とは - コトバンク
この「そば」とは何だろうか。
物理的距離でないことはセックスフレンドという言葉が明らかにしている。*1
心理的距離であるとして、そこには面倒な問題がある。
寄り添っていることと寄りかかっていること。これはどのように区別できるだろうか。
媒介からみた距離
まずは語義にそって考えることにする。
先に挙げた定義では、心理的距離は相手に対する気持ちの上での隔たりとされていた。
ここでの隔たりはどのような意味だろうか。つまり、何が2人を隔てているのか?
心理的距離の近さを示す表現として、「(堅苦しい)付き合いは抜きにして」というものがある。
ここでは、2人を隔てるものとして付き合いが置かれている。
この付き合いは例えば取引先の人、とか義理の家族、とかいう2人の間をつないでいる属性のことだ。
この表現は、属性という媒介を外した近さで、という意味を持っている。
このように考えると、心理的距離は何らかの媒介を挟んでいることとして捉えることができる。先に挙げた例、
先程まで仲良く会話していたけれど、些細なひと言にこころの距離を感じた
では、それまで感じていなかった媒介―それは「能力がある前提での関係性」だったり「職場に限った関係性」だったりするだろう―を感じ取ったことを示している。
そして、心理的距離はこの媒介の質と量によって定まる。
上司-部下という媒介と親-子という媒介は質が異なるだろうし、彼-上司-部下-私*2というつながりと彼-上司-有能な人材-部下-私*3というつながりとでは後者の方が遠い。
寄り添う、寄りかかるに関する予感的記述
寄り添うことも寄りかかることも、心理的距離はかなり近い。しかし、この2つは媒介の質が違う。
寄りかかることは、2人の間を機能によって媒介させる。
寄り添うことは、2人の間を存在によって媒介させる。
寄りかかることは2人の間を取り持つ機能が失われたときに終わる。
機能はものに属する。だから、機能との物理的距離が広がれば寄りかかることの距離も広がっていく。
機能が失われたとき、あるいは機能からあまりに大きな距離を隔ててしまったとき、寄りかかることは終わる。*4
寄り添うことは2人が存在する限り続いていく。そして、存在はその性質が変わってもそれ自体が失われることがない。死でさえも存在を奪い去らない。
ひとりになんてなれない-偲ぶという営み、過去のこだま - tsukaki1990@blog
寄り添うことに終わりはない。相手がどのようなあり方に変わっても、寄り添ってしまう。
だから、私たちはこの意味で寄り添うことはできないのではないかと思う。
機能を抜きにした関係性は、私には可能なものとは思えない。
以上のことは予感として書いている。寄り添うことも寄りかかることも、私において具体的な像は結んでいない。それでも、このような捉え方を今後もしていくような気がしている。