ひとりになんてなれない-偲ぶという営み、過去のこだま
私たちは死者を偲ぶことを知っている。
偲ぶことは、生前のあり方に思いをめぐらせ、死者を改めて弔うことだ。
偲ぶとき、私たちは死者を「見て」いる。
確かに、私たちの心には死者の像が結んでいる。
では、その像はどのようにしてもたらされるのか。
また、
さよならを言うことは、少しだけ死ぬことだ
ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)
- 作者: レイモンド・チャンドラー,村上春樹
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/09/09
- メディア: 文庫
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私たちは離れた場所にいる他者のことを思い起こすことが出来る。
この働きと偲ぶことはどれだけの距離があるだろう。
スピリチュアルな問いのようだが、考えていくのは死者のあり方だ。
死者は死んで「いる」*1。ここには存在が認められる。
では、死者はどのようにして「いる」のか。
死んでいる者を偲ぶとき、私たちは死者を知覚している。
五感でとらえることは出来ないが、確かに私たちは死者を心において構築することができる。
何かを知覚するとき、それはつねに「~について」であることは別のところで述べた。
また、その結果私たちは対象と相互不可分な環世界の中で生きていることも同じところで述べた。
つまり、次のように言える。
死者は世界にあって、私たちの主観的世界を構成する*2。つねに私たちと不可分に結びついている。
結ばれる像は、私たちが死者に投げかける「~について」の反響なのだ。
また、遠く離れた他者もまったく同じ結びつきをしているのではないか。
まったく思い起こされない生者は、死者以上に死んでいるとさえ言えるのではないだろうか。
この意味で、私たちは死者から離れることが出来はしない。
さらに考えを進める。過去の集積のことだ。
私たちが生を受ける前から、多くの人が生まれ、そして死んできた。
そうした死者たちの存在がいつかこの世界から失われる、と考える理由がない。
つまり、私たちは時間を超えたものとして死者を知覚できてしまう。
死者が構成する世界に対して、「~について」を投げかければ必ず反響が帰ってくる。
だから、私たちは決して他者から離れることができない。
生者に囲まれているのと同じくらい、私たちは死者に囲まれた世界を生きている。