息子と私と用具性 - 子どもとの出会い方
昨日子どもが産まれた。
二人目だけれど、やっぱりというか、長男と変わらずかわいいと思った。
これからはこれまでとはまた違った子どもとの暮らしを送ることになると思うと、色々と感じるものがある。
さて、問題は私とこの次男との関係の仕方だ。
私はどのようなものとしてこの子に出会っただろう。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,細谷貞雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/06
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『存在と時間』を途中までしか読んでいない知識で書くけれども、私たちは私のほかのものに出会うとき、用具的なもの(何かのためのもの)として出会うとされている。
ハンマーは釘を打ち込むためのものであり、釘は木材を繋ぐためのものであり、木材を繋いだものは家を建てるためのものだ。そして家は私が快適に暮らすためのものだ。
このようにして用具的なもののつながりは私にたどり着くとされる。
では、私は息子と何のためのものとして出会っただろうか。
むしろ、私を息子の用具として考えたように感じているのは親らしさを求めてのことなのだろうか。
つまり、息子の誕生にあたって感じたことは「私が息子のために何をすることになるか」だったように思っている。
オムツを替えたりお風呂に入れたり、ミルクを作ったり。そういうことをする暮らしが始まるなと思った。
これは、親らしいことをさせてくれるものとして息子と出会い、それは私に親らしいことをしたいという欲があったからなのだろうか。
それはさすがに穿った考え方にも程があるのではないか。
少なくとも子どもがいるということは何かのためのものという形式でのあり方ではないと思う。
私は月並みにでも愛情で結びついていると言いたい。
愛情とは、私を相手のための用具としてとらえることではないだろうか。
聖書の用語でいうところのディアコニアがこれに近いように感じている。
ディアコニアは第一に、奴隷の給仕の行為を意味するように、徹頭徹尾、他者の幸福を願い他者に仕える姿勢を表わす。
仕えるということ - 牧師の書斎
私を誰かのための用具とし、そこから私の意味を捉えなおすこと。そのひとつのあり方が親であることのうちに現れうるのではないか。
私が必ずそうであるとはいえないけれども、そうありたいとは思う。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
コリントの信徒への手紙一 13章