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わからないことを分からないまま書きたい

過去を再現するために―歴史に学ぶこと

はじめに

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

これは元々、自分が痛い目を見ないように他者の失敗から学んでおく、程度の意味だったようだ。故事成語でいくと他山の石に近い。

私たちは他者の経験を知ることができるし、その原因と結果も推測することができる。
これは直接に知っている人に限らず、テキストや映像を通じて時間的に離れた人から学ぶこともできる。
では、私たちは歴史を学ぶことによってつねに失敗を回避できるだろうか。

歴史は繰り返す…一度目は悲劇として、二度目は笑劇として。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

必ずしもそうではない。植民政策は大義名分と態様を変えて繰り返されてきたし、様々なマイノリティがその存在を打ち立てることに失敗してきた。
これは何がよくないのだろうか。1つの回答として、次のものを検討する。
歴史に学ぶというのは、なかなかに難しいことなのではないか?

2つの学び方

歴史に学ぶとき、歴史上のある事象と現在のある事象を比較することが多い。だから、アプローチは次の2通りになる。

  1. 現在の事象を過去より優れたものとしてみる
  2. 過去の事象を現在より優れたものとしてみる

現在を過去より優れたものとしてみること

この傾向が顕著に現れるのが社会進化論および進歩史観だ。これらにおいて、過去はつねに現在によって乗り越えられ、現在は未来によって乗り越えられる。
この2つより穏当な表現であっても、「勝ち取った」「打ち立てた」「到達点」などの表現はこうした見方によっていることが多い。

過去を現在より優れたものとしてみること

この傾向が顕著なのは古代ギリシアの現代を「鉄の時代」ととらえる歴史観だ。
これは、かつて神との関係が密だった黄金時代を頂点に、神との関わりが次第に薄れるにつれて人間が劣化していった、とする歴史観だ。
より穏当な表現として、「敗れ去った」「失われた」などの表現はこうした見方によっていることが多い。

共通する課題―それとこれとは同じことなのか

この2つの見方は分かりやすい。どちらも現在を基準にしているからだ。
つまり、現在において望ましいとされるものが、過去にはなく現在にあるのか、過去にあって現在にはないのかという違いがあるだけで、現在における価値が時代を超えて通用するものであることを前提として共有している。
この点で、進歩主義も懐古主義も同じことだ。

問題となるのは共有されている前提だ。現在における価値は時代を超えて通用するものだろうか。
過去の事例に優れた知見を求めるとき、単純に現在と接続できる通路は必ずしも存在しない。むしろ、存在しない場合が多い。
例えば売買契約に関する知見を求めて古代ローマにたどり着いたとして、現代の売買とローマのそれとは態様が大きく異なる。同じ諾成契約とはいえ、全くの別物であるといって過言ではない。
接続できない知見をそのまま現在に接ぎ木しようとするとき、その努力は喜劇的なものとなるだろう。

過去の事例から反省を引き出すとき、私たちは現在の知見を用いてしまいがちだ。
私たちが無造作に扱う知識や技術は、当時の人間が望んでも得られなかったものかもしれない。私たちが非合理的として退ける営みが、実際には十分に合理的な根拠のもとで行われていたかもしれない。
望むべくもない条件を過去に課して、それをクリアできないことの反省を得ようとする姿は喜劇的だ。

過去のメカニズムと現在の視座

ここまでで透けて見えるように、私は過去を基準にして歴史を捉えるべきだと考えている。
言い換えれば、歴史を学ぶためには歴史を再現しなくてはならない。
この再現が分かりやすいのは、たとえばテキストだったり演劇だったりする。

歴史を再現することは、そのメカニズムを明らかにすることだ。
メカニズムを明かすためには、内部構造、外延、外部との関係性のそれぞれを明らかにしていく必要がある。
その事象はどのように運動したのか。他の事象とそれを区別するものは何か。その事象は何によって起こり、何を生み出したのか。これらを明らかにすることでしか歴史を理解できない。

一方で、この作業は現在において行われるから現在のもつ視座から逃れることはできない。歴史はつねに現在から規定される。
しかし、そこにこそ歴史の意義があるのだと思う。逃れられない現在の視座に自覚的でありながら、その視座を移動しまたは組み合わせて歴史のメカニズムを解き明かすこと。
歴史に学ぶとはこのようにしてある。