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わからないことを分からないまま書きたい

「似ている」はどこにあるか

はじめに

子どもは多かれ少なかれ親に似ている。
似ていると感じるとき、私たちは「どことなく似ている」という経験をする。
明確にここ、というところを指摘はできないけれど、似ていることは確かだ。
これは子どもに限ったことではなくて、たとえば風景に対しても同じことが言える。
同じ家屋も店舗もないのに、私たちは似た街並みを認識する。強く印象に残っている風景との間にその類似性が見出されると、私たちは「懐かしい」という。

同じものがない、あるいは分からないのに、私たちは似ていると感じる。
では、この似ているという感じはどのように生じるのだろうか。

機械における「似ている」

最近では画像認識技術が向上して、似ているかどうかを識別できるようになった。
佐村河内識別システム - ぱろすけ's website

こうした試みの仕組みは以下のようなものだ。

  1. 「似ているかどうか」を判別したい対象の画像を集め、データベースを作る
  2. データベース内の画像を要素分解し、その画像を覚える
  3. 比較対象を持ってきて、似ているかどうかを判別する

このとき、機械は

  • どこが似ているか
  • どの程度似ているか

を明示することができる。引用元でも「佐村河内度」が測定されている。

私たちの「似ている」

こうした技術は、しかし、私たちが似ていると感じるときとは反対のプロセスによっている。
私たちはまず似ていると感じ、その後でどこが似ているかを見つけ出す。そして、私たちが感じる「似ている」の根拠はしばしば観察する人の間で食い違う。
どこが似ているかについて意見が一致しないのは、子どもに関していえば日常茶飯事だ。

だから、次のようにいえる。
私たちの「似ている」という感じには、それと1対1で対応するものがない。
また、私たちは似ているものと似られているものとを並べるようにして「似ている」という感じを得ていない。データと突き合わせるのとは違う仕組みで、私たちは似ていることを感じ取っている。

対応する刺激がないのに、私たちの手元には「似ている」という感じがある。
これは単純な認識、感覚ではない。私たちは目に見えるもの以外のものをみている。

私が感じ取る、ではどうやって?

私たちの持っている「感じ」には、単純には刺激と対応しないものがある。
これは「似ている」に限ったことではない。
たとえば温かいお風呂にメントールを入れれば私たちは寒さを感じる。それはメントールの冷感作用によるものだ、では温度の感覚はどこへ行ったのか。

私たちの感じ方はそれなりに込み入っている。ある状況において、その状況から何を感じ取っているのかは状況を見ても、そして私たちの器質を見ても分からない。
そこには要素の組み上げ以上の何物か、部分に還元できない全体がある。