はじめに言葉ありき-言葉を頼りにできないこと
言葉について考える
始めに、言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
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- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1963/09/16
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岩波文庫でも出ていることだし、福音書は読むことをお勧めする。
神の奇蹟は知っても知らなくてもよいけれど、ここまでのテキストを編み上げた力を感じ取ることはそれ自体で素晴らしいことだ。
今回は、言葉について考える。あるいは私たちの能力について。
つまり、私たちは言葉によってどこまで知ることができるのか、ということを考える。
主に聖書の創世記に沿って考えをすすめるけれど、これは神の啓示である絶対的なテキストだからというわけではない。
聖書の提示する世界は、宗教色を抜きにしても意味するものが大きいからだ。
なお、以下での引用は口語訳によっている。
Web上でも見られるけれど、手元に置きたいひとはこちら。
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神の言葉と創造
まずは神が発する言葉について考える。
神の創造パターン
創世記1章におけるものづくりにはパターンがある。
パターン1
- 作るもののあり方を言葉で示す
- そのようになる=神が創造する
- 名付ける
神はまた言われた。「水の間におおぞらがあって、水と水を分けよ」。(1:6)
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。(1:7)
神はそのおおぞらを天と名づけられた。(後略)(1:8)
この時、神は次のようにはたらくと言えるだろう。
- 被創造物の要件を言葉によって確定する
- 要件に沿って作る
- 完成物に名をつける
神=言葉とすると次のようになる
- 被創造物の要件を神のもとで確定する
- 言葉のはたらきによって作る
- 完成物に名をつける
パターン2
- 「~あれ」という
- ある
- よしとする
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(1:3)
神はその光を見て、良しとされた。(後略)(1:4)
これも神=言語として考えると次のようになる。
- 被創造物の存在を前もって宣言する
- 宣言によって創造されたものを確認する
- 創造の完了を宣言する
パターン3
- 創造する意志を宣言する
- 計画に沿って創造する
- 祝福する
神はまた言われた。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう」(1:26)
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。(1:27)
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(1:28)
人間の創造に際してはパターンが異なる。
神は言葉によって創造していない。
言葉による創造であれば、まずは作るものの要件が確定され、創造によってそのようになる。
しかし、1:26で宣言されたのは神の創造にむかう意志であって要件ではない。
だから、1:27で「どのように造ったか」を書かなければならなかった。
また、祝福という行為は関係性を維持する行為だ。
「結婚おめでとう」が新郎新婦との関係をご破算にするのでなく強く結びつけるように、神は人との関係性を強くした。
事実、直後に神は自らの創造した生き物たちを人に与える(1:29)。
なお、この贈与は言葉によって(パターン1)なされている。神と人との関係性は創造の時点でなく、この時に創られている。*1
神が人に与えたもの
神は人に自らの創りだした生き物を与えた。
では、「後はよろしく」的にすべて手放してしまったのだろうか。ここではそう考えない。
神は人に与えた役割は生き物を「治める」ことだった。
人はその役割の限りで祝福を受けており、その証として生き物を受け取った。
だから、人に与えられた生き物は治めるに足りる程度のものだと考えることが出来る。神による白紙委任ではない。
ここで神の行った創造の結果が生きてくる(パターン1,2)。
神による創造の結末は、「名付けること」「完了を宣言すること」だった。
そして、人が神から生き物を受け取るのはこの後のことだ。
これらから次のようには考えられないだろうか。
人は、「名づけられたもの」、「創造が完了したもの」として、パッケージとしての生き物を受け取っている。
だから、その前のあり方には踏み入ることができない。
人間の言葉
名付けるということ
私たちはものを認識したとき、それに名前をつけることができる。
これは、神に委ねられた権限のもとで事物を人の世界に客体として紐付けること、治めることだ。
名前は他のものから区別するための目印であるから、私たちはそれぞれの名前によってそれぞれを区別して理解できる。
この区別は、いちど体系をなしてしまえばその体系のなかで位置を変えることはない。
日本語においては「犬」と「猫」は違うものになっている。
この区別をなくして「四足動物中型」のように同じものとして呼びたければそれは日本語ではない別の体系になる。
では、区別はどのようにして存在するだろうか。
私たちが認識するのは名前ではなく事実だ。
単独の「犬」ではなく、「犬が座っている」「犬がかわいい」のように述語がついてくる。
私たちはまず文を認識する。
この文から、私たちは要素を抽出する。
「犬が/座っている」でもよいし、「犬/が/座っ/て/いる」でも構わないが、文の要素は文の後にある。
だから、私たちは言語の結びつきの形式を判断することができる。
「白い犬が走る」は正しく、「犬が白い走る」は正しくない*2。
私たちの名付けるという行為は認識からダイレクトにはもたらされない。
名付けの区別はこのようにしてある。つまり、文の中ではたらく形式の違いとして。
言葉は文の前に届かない
世界は、事実の総体で、もののではない
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神は自らの言葉によってものを生み出し、名によって認識への門戸を開く。
私たちに与えられているのは「名付けられたもの」、文のなかではたらくものであって、それ以上遡ることができない。
だから、私たちは区別の理由を知ることができない。
虹の色が地域によって違うとしても、「なぜ7色ではなく5色だったか」「なぜその色として名指されなければならなかったか」を知ることはできない。
「違うから違う」としか言えない。
私たちの言葉は文を超えて神のもとへ達することができない。
「なぜ文はそのようにできているのか」「他の区別は不可能なのか」ということについて、私たちは語る言葉を与えられていない。
「治めるもの」としての権限の限界がここにある。