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tsukaki1990@blog

わからないことを分からないまま書きたい

表現の自由に関する試書

その他

とくに強い問題意識はないのだけれど、「表現の自由」と呼ばれるものの正体がつかみかねるので現段階の思考をまとめたものとして書いておく。

 

表現とは何か

表現の自由によって保護される・されないに関わらず、一般に表現とは何を指すのだろうか。
制限の可否が問題となる類型として、たとえば「差別的表現」「暴力的表現」などがあるけれども、ここではそれらも表現に含まれるものとして考えたい。
つまり、「他者に心的損害を与えるかどうか」は有用性のないものとして無視することにする。

表現は、特定の情報や感情の高まりを他者に伝達する行為である。
言論はもちろん表現であるし、絵画や音楽、舞踊等も表現であると考えるから、このような括りが適切と判断した。
注意点として、発信者の動機は考慮せず、受信者の側で何らかの情報・感情が受信されたことをもって評価する。

また、表現は公権力を離れた時空間でのみ成立するだろう。
たとえば国会における議員の答弁は、表現ではなく公権力による情報発信として区別する。

さらに、表現は他の市民に対する公権力ないし有形力の行使なく行われなければならない。
表現への対抗措置として司法の力を借りる、というのは表現による対抗ではないし、有形力を行使して表現を抑止するのは無論表現にあたらない。

では、誰が表現の担い手なのか。言い換えれば、表現を行うとき私たちは何者なのか、については後述する。

表現の自由とは何か

表現の自由は、表現のもつ有用性/無価値性によらず、
表現者の間で相互に表現のみがやり取りされる空間」を確保することであると思う。
その結果、表現に対しては表現でしか対抗できない。
たとえば、ある表現の撤回/修正を求めて(私人によるものでも)司法に訴え出ることは表現の自由を制限しようとする営みである。
 (ここで、私は表現によって受けた損害の賠償請求については何も語っていないつもり)

表現が属する空間の性質について

表現が属する空間、相互に表現しかやり取りすることのできない空間とは、どのような性質をもつだろうか。
この問いは前述した「表現を行うとき私たちは何者なのか」という問いの答えにもつながる。

まずは理念型として公的空間と私的空間について述べておく。
公的空間とは、所有者がおらずしたがってその存立・維持にあたり明示的な関与アクターが予め示されておらず、つど有志によって存立・維持が行われる空間のことをさす。
また、公的空間においては市民がその立場に基いてのみ活動を行い、そこでは私的なつながりや有形力の保持は有用性を認められない。
したがって活動の内容において有形力の行使は排除される。
典型的な公的空間として、政治空間や市場を想定している。
一方の私的空間とは、明確に所有者が決まっており、所有者によって存立・維持される空間をさす。
私的空間においては私人が所有者との関係性に基いて活動を行い、私的なつながりや有形力は有用性を認められる。
典型的な私的空間として、家庭を想定している。

さて、表現の属する空間は上の理念型の間でどのような位置づけになるだろうか。
公的空間との類似性として、
・表現には表現で対抗しなければならない
・空間の存立・維持に明示的に関わるアクターがいない
という点があげられる。
一方、私的空間との類似性として、
・経済力や私的なつながりを活用して表現を拡散させることは認められる
という点があげられる。

では、表現を行うとき私たちは何者なのか。どのような身分に基いて表現するのか。
表現の拡散に私的な力が用いられるとはいえ、何かを表現するときに私的な力は役に立たない。
何かが表現されるとき、表現者は単独で対象に向き合わなければならない。
一方で、表現者はその表現が他者に与える影響について責任を負う。
自らの表現に対するカウンターとしての表現は、すべて自らをめがけてくる。
また、自らの表現が意図せざる意味を持っても、オリジナルはその意味から逃れられない。

私たちはすべての社会構成員に責任をもった、もっとも広い意味での市民として表現する。
また、同じ市民という身分に基き、他の市民が暴力的に表現者たる地位を奪われようとするときに有志として阻止する。
このことが表現の自由の本当の意味ではないだろうか。