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わからないことを分からないまま書きたい

私は私を知っている、それでも私には出会えない-なぜ私はぴたりと表現されないか

自らのことを指し示すことが苦手な人は少なくないと思う。

自分のことを表現する難しさについては書いた。
今度は、自らについて述べられたことの正しさを判断する場面を考えたい。

私たちは自分のことについて表現されたり評価されたりすることがある。
それはセミナーでよくある他己紹介だったり、あるいは勤め先での能力評価だったりする。
こうしたとき、私は表現や評価がぴったり私を表現できていると感じることが少ない。

表現には限度がある。私の全体はその限度を超えてあるからぴったり表現されない。
これは確かにそうなのだけれど、今回考えたいのはそれではない。
その表現や評価がその射程において捉えている私は、どうも正しく私ではない。私についての表現はなかなか的を射ることがない。こうした現象はどうして起きるのだろうか。
私が表現されるとはどのようなことなのか。私は私についての表現をどのように受け取るのか。
今回はこのことを考えたい。


私たちはさまざまに異なるから、世の中には様々な私がある。
そうした私を表現しようとするとき、その方法はどのようになるだろう。

私がほかの私に触れるとき、その私はいくつかの属性からなるものとして現れることがある。

  • 「あなたは東京生まれ・東京育ちで、有名私立大学へ進学したひとだ」
  • 「あなたは伝統芸能が好きで、一方で新たなカルチャーを生み出そうとする企業で働いている」

こうした表現に私たちは違和感をもつことがある。

その属性は確かに私のことなのだけれど、あまり「私」感がない。

私たちは自分の属性について、すべて同じようには保有していない。そこには強弱がある。
私の感じている強弱と私に関する表現での強弱があっていないと、私についての表現と実の私の間に距離を感じることになる。

また、私はその意思や行動の特徴の集合として現れることがある。

  • 「あなたは分析的に物事を考え、発見した課題を自力で解決しようとするひとだ」
  • 「あなたはリベラルな考えの持ち主だ」

こうした表現に私たちは違和感をもつことがある。

私の意思や行動はそうしたカテゴリとは別のメカニズムから来ている。

例えばリベラルと括られる考え方をしていても、その射程は女性問題に関するものだけだったりする。
分析的に物事を考えるのは仕事の場面での振舞いとしてそれしか知らないだけで、プライベートではなんとなくの感覚で生活していたりする。
私の意思や行動が導かれるメカニズムと表現された内容が一般にもつメカニズムがあっていないと、表現と実の私の間に距離を感じることになる。

強弱にせよメカニズムにせよ、それ自体は外に現れていない。
私たちが自らに関する表現についてその妥当性を判定する基準は、実は表現する側には知らされていないものだ。
そして、こうした事柄を表現する側に伝達することは思いのほか難しい。

  • 私が自らの属性の中でもっとも重みをつけているものは何か。
  • 私の考えはどのようなメカニズムから来ているか

私には当たり前のことであるのだけれど、いったん表現という枠組みで取り出そうとするとするりとこぼれてしまう。
私に関する表現への評価はそうしたものによって立っている。

言い換えれば、私が私に関する表現についてもつ違和感は、私が私自身を取り出せないことへの違和感だ。
そこで問われているのは、私に対する私なのだった。

日常においては私は私ぬきで生活することができる。私の生活において、私は問題にならない。
私に関する表現について私が問題となるのは、表現がそれ抜きでそれを現象させようとするものだからだ。

信号はその色によって進んでよいかどうかという規範を現象させる。
青という言葉はそれによって青さを現象させる。
そこには実際の規範も青さもない。表現はつねにそこにないものを現象させようとする。

私に関する表現は、実際に私を連れてくることなしに私を現象させようとする。
だからこそ、そこで現象する私とは何者なのかという形で私のありかたが問題になる。

私が私を知っているから、表現された私が私ではないことがわかる。
一方で、私は表現された私がどのように私でないのかを明確に指し示すことができない。私には私がわからない。

私はこのようにしてある。明らかに知られているのに、その知られ方は表現できるフォーマットにはなっていない。
明確に誤りであるとはいえない、という限度で、私に関する表現は多かれ少なかれ正しい。
でも、私たちはその表現を正しくないと思っている。その感覚は、私が私に出会えないことから来ている。