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tsukaki1990@blog

わからないことを分からないまま書きたい

翻訳を翻訳する―考えたままに伝えることはできないか

あり方

はじめに

問題意識は目次(こちら)をみてもらいたい。
ここでは、1つ目の問い、

  • 考えたままに伝える事はできないか

について考える。

考えることば、伝えることば

私たちはものを考えるとき、特定のことばによっている。
これはいわゆる言語に限ったことではない。不明瞭なことがらに像を結ばせること*1。ここでは、その働きをことばと呼ぶ。

私たちがものを考えるとき、そこに必ずしも言語が媒介するわけではない。
現にこの文章を書いているとき、私の頭の中にこの文章がそのままあるわけではない。私はキーを叩きながらこの文章をはじめて読んでいる。
また、スポーツをしている際の判断も言語によっていない。理想の走り方というものを考えることはできるけれど、その時に「『脚を高く上げ腕を勢い良く振り...』」のような言語は現れない。私たちはからだの動きを考えることができる。

考えることは感覚に還元できるのかというとそうでもない。
私たちは考えたことを見聞きしたこととは違ったしかたで認識しているし、理想の走り方はそれに対応する外的状況がなくても、理想の走りを見ていなくても成立する。
考えることは言語と感覚の間にある知性の営みだ。そこに存在するものをことばと呼んだのだった。

そして、私たちの考えはまとまる。特定の像を結ぶ。その現れはものごとによるし、人にもよるだろう。
ある人は思考が視覚的な構造物のように組み上がっていくのを見るかもしれない。
ある人は思考が均整のとれたハーモニーのように響くのを聞くかもしれない。

一方で、物事を伝えるのはその像を他のあり方で再現することだ。
私は考えたことばを言語に変換している。
作曲家は自らの考えたことばを楽譜に変換している。
アスリートは自らの考えたことばを身体運動に変換している。

それぞれのことばに現れるもの

考えることばと伝えることばは共通点もあれば相違点もある。

共通点は、どちらにも自己が現れているということだ。私たちはことばを通じて何かを伝えるのではなく、ことばにおいて自らを伝えている。
考えることばにはその人が現れる。私たちは同じ状況を与えられても違う思考をもつことができる。おそらくは、全く同じ体験をしてきた人の間でも同じ思考は現れないだろう。
伝えることばにもその人が現れる。言語を選ぶとき、私たちは辞書を引くようにしていない。言語はおのずから浮かび上がってくる。これは身体表現でも同じことだ。サンプルの動きを組み合わせるようにして動いてはいない。

相違点は関係する私の位置にある。
考えることばは考えられるものと考える私の間にある。私たちは世界を考えることばによって知っている。
伝えることばは考えたことと伝える私の間にある。伝える私は伝えることばによって考えたこととしての世界を知っている。

私はものを考えるとき、必ず何かについて考えている。ここで私と考えられるものの間の関係が自覚される。
そして、私はものを考え始める。そうすると、考えられるものと私は考えることばにおいて現れる。
考えられるものはそれが持つことばが私の考えることばに翻訳されることによって。この翻訳されたことばは意味と呼ばれるものだと思う。
私はその存在が考えることばにおいて現れることによって。私が考える主体であるのは、この考えることばにおいてのみのことだ。
ものを考えていくと、考えられるもののあり方が変わってくる。今まで与えられていなかった像が私に与えられる。
この像を獲得したとき、私は考えが一段落したことを感じ取る。

一方で、伝えることばには考えられるものがそれ自体として現れない。
それは必ず考えることばに翻訳されたもの、つまり意味として現れる。
意味に翻訳されたものごとが、伝えることばに翻訳されて私に与えられる。
また、この私は考えることばにおける私ではない。
考える私は考えることばにおいてものごとを意味に翻訳する。この時の私はものごとと一体になろうとする。
伝える私は収穫した意味を伝えることばにおいて再び現そうとする。この時の私は考えることばにある意味を伝えることばに翻訳する。

そして、翻訳において、原語の意味が完全に伝わることはない。
翻訳はそれによって異なることばの間の関係性、および関係性の限りで原語の意味を伝達する。

限界はある、それでも

このように考えると、考えたことを完全に伝えることは原理的にできない。
でも、だからと言って私たちは伝えることを諦める必要はないと思う。

1つには、こうした限界に達するような体験はごくまれだろうと思われること。
もう1つには、伝えようとしているときにこの限界に気づくことはないだろうということ。

考えたことがうまく伝わらないとき、私たちは自らの技術不足を疑う。
うまい表現が思いつかなければ辞書を引くし、パフォーマンスの実現には練習が欠かせない。
こうした過程にあるとき、私たちは技術不足と翻訳の限界とを区別することができない。
だから、私たちはつねに技術不足に根拠を求めるし、そうすべきだと思う。
限界があることは、すべての努力が無駄になることではない。努力によって限界に限りなく近づいていくこと。その領域は無限に広がっている。

*1:ここで視覚的比喩を使ったのは私が視覚的な思考をしているから。別にノイズをハーモニーに変えるでも何でもよい