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わからないことを分からないまま書きたい

基準には意味がない―「自分の人生を生きる」こと

はじめに

自分の人生を生きる。人生に対する意識の高い人の間では常識ともいえる言葉だ。

自分の人生を生きるというのはどういう状態かというと、「何かをする時、何をするかを自分で選んで、決めて、やる」という状態です。

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自分の人生を生きるとき、そこでは自分の基準が問題になる。
この行動は自分の基準に照らして正しいものといえるか。その比較の後で行動を決めていく。

では、この基準はどのように生まれるだろうか。
そして、それは使い物になるものだろうか。

自分基準の作り方

体系的に基準の作り方を書いているものが見当たらなかったので、「こういうことなんだろう」というのを頑張って考えてみる。

自分の基準は、いいかえれば自分自身のあり方だ。だから、基準は作るのではなく見つけるのが正しい。
基準はすでに自分の中にある。それが見えていないだけなのだ。
すでにある基準に気づくためには、自己のあり方を見つめなおすのがよい。

  • 自分はどのような経験をしてきたか
  • 自分はいまどのように生きているか
  • 自分はこれからどのようになりたいか

過去の経験から、「どのようなときに喜びを感じるか」を振り返る。
今のあり方を反省してみて、喜びを感じられていないのはなぜなのかを考える。例をあげる。
他の人からどう見られるかで行動を決めていないか。自由に生きるには嫌われる勇気が必要だ。
他の人に依存してはいないか。本当の優しさとは互いに自立したうえで実現されるものだ。

ここまでで、自分が喜びを感じる瞬間のイメージが湧く。

そして、やりたいことを吟味する。本当に自分がやりたいことは何なのかを考える。
それは必ずしも楽しいばかりではないかもしれない。しかし真の喜びは苦しみを乗り越えた先にある。
それは必ずしも何かを達成したいというものではないかもしれない。結果より過程に喜びを見出す人はいる。
こうして定まったやりたいことに対して、その実現のために何をするべきかという観点から自分の基準が定まる。

この過程は必ずしもひとりで行う必要はないし、むしろ他者からの声は欠かせない。ジョハリの窓でいう「盲点の窓」を「開かれた窓」に導くには、自己開示と他者からのフィードバックの両方が必要だ。自分の核心を言い当ててくれる人がいれば、その人をメンターとして意見を仰ぐのがよい。
また、自分の基準は更新していく必要がある。自分のあり方はつねに変わっていくから、その基準も変わっていく。いちど定めた基準に盲目的に従って生きるのは、過去の自分に従って生きることだ。自分はつねに自由でなくてはならない。

およそこのようになる。色々なキーワードがあるだろうとは思うけれど、骨組みはこのようなものだ。

私たちは基準なんて使っていない

このアプローチで見つけられた基準は、ものごとを選択するときに使う。
いくつかの選択肢の中から行動を決めるとき、基準に照らしてそれらのよさを比べる。すなわち、

  • 自分の目標を実現するために役に立つか
  • その過程で喜びは感じられるか

などを考えて、その結果から行動を決める。だから納得して行動できる。

でも、本当にそうだろうか。私たちはそのようにできているだろうか。

自分の基準が生きるためには、選択肢がなくてはならない。その選択肢はどこから来たのだろうか。
それは意識の前から来る。私たちは主観的なはたらきとして世界を観ている。その世界が意識に与えられる。
基準はその後で機能する。そして、私たちはしばしばどの選択肢もイマイチという局面に遭遇する。

ここでするべきことは、基準に照らしてどれがマシかを選ぶ前に、主観的な世界を構成し直すことだ。
本当に他の選択肢はないのか。デメリットはそんなに大きいのか。本当に実現可能性は低いのか。
こうした質問は「本当の自分」に対して向けられる。ひとの本質はその人が生きている世界にあるからだ。
だから、本当の自分は即座に肯定されるものではない。それは反省され、妥当性を確認されるものだ。

この過程で選択肢が現れ、基準が現れるのはその後になる。では、基準はどのように使われるだろうか。
選択肢をだしたのは検証を経たあとの自分であり、基準を作ったのは検証を経る前の自分である。
だから、選択は基準によらずなされる。基準はせいぜい事後的なテストに使われ、しかもクリアしなければ基準が改められる。
その時私たちはこのように言う。「本当にやりたいことが見つかった。今までの基準は間違っていた」

次のように言うこともできるだろう。
私たちは意識によって選んでいない。意識には選ばれた結果だけが与えられ、結果の審議しか出来ない。

基準に照らして与えられた選択肢を審議することにはあまり意味がない。選び方を審議する必要がある。

なぜ基準が生まれたか―過程と結果の取り違え

では、なぜ意味の薄い自分の基準が重要視されてしまうのだろうか。そこには私たちを観察するモデルに対する誤解があるように思う。ここでは効用モデルが問題になる。

私たちは効用を最大化するために行動する。
何に効用を見出すかは個人によるから、まずは何に効用を見出すかを定義しなければならない。
こう考えると、自分の基準を立てることに意義が生まれてしまう。

しかし、効用モデルは行為のプロセスを説明しない。ある行動が見られるという結果を「現状ではこの行動が効用を最大化する」という仮説を立て、そこから思考するためのものだ。
だから、効用の最大化を疑うためには、効用関数が正しいものになっているかを考える必要がある。
関数をもたらすのは意識ではない。関数は意識にとって与えられるものだ。

このように、「自分の基準」論は端的に言って効用モデルの誤解に基づく筋の悪い理屈だ。
自分の人生を生きることは、自分をつねに更新しつづけること、関数を変えていくことだと言える。