読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

tsukaki1990@blog

わからないことを分からないまま書きたい

教えられることから始まる―「習うより慣れろ」の前に

はじめに

習うより慣れろ、という言葉がある。

人や本から教わるよりも、自分が練習や経験を重ねたほうが、よく覚えられるということ。

習うより慣れろ - 故事ことわざ辞典

社会人が最もよく使う言葉のひとつだ。

一方で、すでに「慣れるより習え」という言葉も生まれている。

覚えるためには学習が先か、経験が先か。いずれにせよ「学べば/経験すれば覚えられる」という前提がある。
でも、果たしてそうだろうか。

私たちはよくこのような体験をする。

  • 勉強したいと思っても、何から手を付けていいかわからない

このとき、学習が成立していない。

  • 研修を受けてはみたものの、そこで何をしたのか意味がわからない

このとき、その経験は覚えられていない。

では、覚えるために必要なこととはなんだろうか。今回はこのことを考える。

「覚えている」の意味

覚えた、あるいは覚えている、という言葉はどのような意味をもつだろう。
『すばらしい新世界』に、記憶に関するこんな記述がある。

実験として、睡眠学習によって知的学習を行おうとする。
子どもが寝ている間に流れてくるのはこんなフレーズだ。

ナイル河はアフリカ最長の河であり、地球上の全河川中その長さにおいて第二である。...

翌朝子どもに「アフリカで一番長い河はどれか」と聞くと「知らない」と答える。
しかし、「ナイル河」という単語に対しては「ナイル河はアフリカ最長の河であり、地球上の...」と寝ている間のフレーズを一語一句間違えずに答える。

この子どもは何を覚えたのだろうか。
この子は音声としてのフレーズを完璧に覚えている。しかしその意味はまったく知らない。
覚えることと知ることは、このように区別される。

同じようなことに私たちも遭遇する。たとえば英単語を暗記する場面がそうだ。
日本語と英語の意味の対応は覚えられる。でも品詞を知らないから英作文では使えない。

実践を考えると、単に覚えていることには価値がない。私たちが「覚えている」というとき、実際の意味は「知っている」なのだ。

正しく「知っている」こと

では、知っているとはどのようであれば正しいだろうか。
言い換えれば、知っていることのテストはどのようにされるだろうか。

ある英単語を知っているかどうかをテストするとき、最も重要なこととして用いられるのは英作文と和訳の作業だ。
英作文では英語においてその単語がどう使われるかを知っているのかをテストし、和訳では英語におけるその単語が日本語においてどのような意味と対応するかをテストする。
ここで大切になるのは、「英語において」「日本語において」テストされるということだ。私たちは知っていることをそれ自体でテストすることをあまり大切だと考えていない。
これはつまり、それ自体を知っているだけでは「知っている」とは呼ばないことを意味する。
他のことも、しかも特定の知り方をしていないと、それは知っていることにならない。
私たちはその特定の知り方のことを「体系」と呼ぶ。

知っていること、知識はその体系を前提して意味を持つ。体系なしの知識には意味がない。
体系はその他の知識をかき集めたものではない。英単語を1,000個知っていても、"I have a pen."と書けなければその人は英語を知らない。
そこでは体系だてて知識の意味を知っていることが求められている。

これは経験でも同じことだ。スポーツでは「漫然と練習するな」と言われる。
ここでの漫然は、体験をそれ自体として積み上げることを言っている。
そうではなく、体験を競技のなかに位置づけることが求められる。
今のスイングはどのような打撃につながるか。
今のランニングは相手チームからどのような動きを引き出すか。自チームにはどうか。
競技という体系において、その体験がどのような意味を持つのかを知ることが求められる。
そして、そのような動きが出来る選手のことを私たちは競技をよく知っていると表現する。

まとめるとこのようになる。
知識にせよ経験にせよ、それが体系の中で意味を持っているということが知っている=覚えているの内容だ。

体系は教え「られる」

個別の知識や経験を知るためには、体系がなくてはならない。
体系は個別の知識/経験の間にある。体系とは関係性のことだ。

だから、体系を学ぶとは結び合わせることを学ぶことだ。私たちは結び方を知らなくてはならない。
結び方を知るためには学習も経験も役立たない。体系は学習や経験の前にある。
ここに、教育の生きる余地がある。

教育とは有無を言わさず知識や経験の塊を与えることだ。そして、その塊を解きほぐしていくことだ。
私たちは教育の端緒を暴力として認識する。そこには塊のもつ重みがあるから。
しかしそれを跳ね除けると私たちは教育の効力を実感する。この意味で、学力とは根性のことだ。

これは単に知識の詰め込みのことを指していない。そこには体系がない。
体系は教師の振舞いに示されている。私たちは教師を見ることで体系を知る。だからきっと、コンピュータは初等教育を担当できない。コンピュータは語ることは出来ても示すことができないから。

そして、体系を内面化した人のことを私たちは主体と呼ぶ。
主体を作り上げることが出来るのは教育の持つ暴力性だけだ。

習うこと、慣れることの前に

習うこと=学習は、目の前の素材から能動的に知識を掴みにいくことだ。
慣れる=経験は、体験の中から能動的に意味を掴みにいくことだ。

意味をなすためには体系がいる。体系のためには教育=教えられることが必要になる。
受動的に主体を形成させられること。それ以外に学習や経験を可能にする手立てはない。

だから、習う前に、慣れる前に、私たちは教えられたことに立ち返る必要がある。
そこから離れた学習も経験も存在しない。教育から離れた学習は知識の山に留まる。教育から離れた経験は体験の集積に留まる。

おまけ―最近の教育はすごく大変

この頃、教育のなかにアクティブ・ラーニングを取り入れようとする動きがある。

学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」学修(能動的学修)のこと

「アクティブ・ラーニング」とは何か 次の学習指導要領で注目-渡辺敦司-【Benesse(ベネッセ)教育情報サイト】

能動的学習は体系の存在を前提する。だから、アクティブ・ラーニングを始められる程度には体系を伝えておく必要がある。
そこでは教育が完了していなければならない。初等教育はより暴力性を増していかなければならない。

一方、今回の中教審に対する諮問では、小・中・高校のアクティブ・ラーニングを「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」としたうえで、「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろん「どのように学ぶか」という学びの質や深まりを重視し、知識・技能を定着させるうえでも、学習意欲を高めるうえでも効果的だと意義付けています。

学校は「学ぶ」場所ではなかった。いやでも「教えられる」場所だった。
それが能動的に学ばされることになる。子どもは主体であることを求められる。

これは子どもにとって不幸なことだ。つねに自分の意志で学ばなければならない。
しかしどうやって?彼らは体系を身につけていないのに...。