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わからないことを分からないまま書きたい

価値は欲望のことなのかもしれない―『すばらしい新世界』

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

はじめに

この本は近代のことを書いているのだと思う。
近代におけるひとつの理想的な社会、そこにおける人の生き方、そうした社会を維持することが書かれている。

この本は読み手の関心を惹きつける話題が多くある。
それを網羅しようとしても技量の面で出来なかったので、ここでは話題をひとつに絞る。

近代というプロジェクト

この本に描かれている世界の要約は、この本の前にすでにニーチェが書いていた。

「僕等は幸福を発明した」―最後の人間はこう言って、まばたきする―

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

この社会では完全な幸福が実現されている。
人びとは予め社会における位置づけが定められており、その役割を全うすることを目的に生きている。
誰もが社会に等しく参加でき、「万人は万人のためにある」。
辛いことがあっても、それを吹き飛ばす薬がある。
もし自らの役割から外れた生き方がしたければ、消極的ながらその生き方も認められる。

その社会の実現のために、彼らはこれまでの価値や歴史と訣別した。
歴史を伝えるものはすべて破壊され、教育はまったく新しいプログラムに改められた。
そして、新たな社会の誕生した日を社会をあげて祝っている。

これは、近代の樹立のために私たちが過去に対して行っていたことの極端な描写にほかならない。
度重なる革命はその目的のために既存の価値に対して戦いを挑んだし、成功した革命はその成功を特定の日に結晶させてこれを祝う。
過去は乗り越えられるものとして存在し、より幸せな社会のために努力が重ねられてきた。

現在しかない世界

作中では、私たちの掲げる価値が完璧に乗り越えられている。乗り越えることは忘れることだ。
私たちが今追求している価値はすっかり忘れ去られてしまった。

また、この世界は完全な到達点として認識されている。
そこには乗り越えるべき課題がない。未来は現在とまったく同じ姿をしている。

私たちはこの作品で実現された社会に違和感を持つ。ディストピアとして認識する。
私たちは作中の社会に私たちの掲げる価値が復興することを望む。

でも、それはどうやって可能になるだろう。抵抗の端緒としての過去の発見は、その機会をまったく失われている。
また、未来に残された課題もない。

現在しかない世界で、私たちの価値は再び現れることがあるのだろうか。

機能の前にあるもの

作中の世界は、ひとの持つ機能を最大限に活かしている。
あらゆる階級がそれぞれに社会的な役割を与えられ、最適なかたちで社会に価値をもたらす。
人は死に臨んでもその機能を全うする。死を他者に体験させるものとして。そして有機物として。

こうしたあり方は、しかし搾取ではない。彼らは社会から十分な効用を与えられている。
社会を安定した姿で保つために誰もが努力するのは、それが刷り込まれた道徳に合致することに加えて、その方が暮らし向きがいいからだ。

この社会はパレート最適だ。仮にこれ以上の利益を得ようと思ったら、何らかの利益が失われる。
そして誰もが現状の利益で満足しているのだから、インセンティブに訴えることはできない。
機能において、私たちはこの社会に勝ち目がない。

だから、私たちは機能の前に賭けるしかない。では、機能の前には何があるだろう。

機能とは、特定のインプットに対して特定のアウトプットを返すことだ。
内部の構造に関わらず、同じインプットに対して同じアウトプットを返すならそれは機能において同じものだ。

この考え方に立つと、私たちと機械とは機能において同じものになりうる。
インプットとアウトプットはどちらも主体の外で観察できるから、それと同じものを設計すればよい。
そして、機能が同じであれば私たちと機械は同じものだ、ひとは高度な機械だとする考え方も存在する。

でも、私はそのようには考えない。ひとは機械とは違うものであってほしい。
そのためには、機能においては同じでもその性質において違うと言う必要がある。
機能の前に「人間性」あるいは「機械性」があると考えなくてはいけない。

では、この人間性とは何なのか。私はこれに答える必要がある。

必要ないものは与えられない

でも、人間性を確立できたとして、それでもまだ戦いは終わらない。
作中の社会はそうした内在的な価値をすべて捨てることで成立している。この社会に人間性は必要ない。
必要でないものはどのように実現されるだろうか。欲望を離れたところで何かを求めるはたらきは私たちにあるだろうか。

だから、私たちは「賭ける」しかないのだと思う。
幸い、作中には価値が芽生える様子がわずかに描かれている。

個人主義、あるいは真理の探求を求める人物が登場する。
ひとりは自らの階級に求められる体格を持たない者。
ひとりは社会で求められる水準を超えた能力を持ったもの。

彼らは自らのあり方としてではあるものの、私たちの世界にある価値を追求した。
これを集団に拡張することが賭けの第一歩になる。

しかし、これは体制のエラー頼みになる。心もとないがこの勝負しか選べない。
それほどまでに機能が満たされることで得られる自己充足感は大きい。
私たちのあり方は社会においてどのように生きるかに大きく依っている。これは私も同じことだ。

だから、もしかしたら至上の価値なんてものはないのかもしれない。
それは何か満たされない人、あるいは多く与えられすぎた人が発する欲望の現れでしかないのかもしれないと思い始めている。

実際、ツァラトゥストラは民衆のこのような声に迎えられた。

俺たちをこの最後の人間にしてくれないか。ならば、超人はお前にくれてやる!