親になるということ―子どもが歩いた記念に
大きな第一歩に出会って
きょう、息子がはじめて歩いた。
この喜びはそうそう感じられるものではない。
私はしばらく興奮し、こぼれる笑みが止まらなかった。
すべてのひとに伝えて回りたい。そう思った。
ひとが歩くことの持つ意味は多い。
親にとって重大なのは、子どもが世界にひとり立っていることを突きつけられることだ。
子どもはこの世界にあるときから、つねにすでにひとりで「ある」。
きょう、私はそのことをつよく知らされた。
だから、すでに少し寂しい気持ちになっている。まだまだ幼いわが子を前に気が早いとは思う。
喜びと寂しさと、この大きな感情は私が親であることからくる。
しかし1年前まで私は親ではなかった。子どもが生まれたときも、まだ親ではなかったように思う。
1年という時間のなかで、私はいつの間にか親になった。
では、私はどのように親になったのか。
私を親にするのは何か。私はこれを証しする。
これは、私の信仰告白だ。
使者としての子ども
子どもを授かることは大事件だ。
ある人は長年の夢がかなったことに感謝し、喜びに満たされる。
ある人はまだ薄い実感のなかで、それでもいずれ生まれるわが子に思いを馳せる。
また、子どもによってその関係が終わりを迎える人たちもいる。
私たちは、子どもが出来たとき「それはそれとして」と扱うことが出来ない*1。
子どもに対する判断から逃れることなど出来はしない。
私たちと子どもの関係は複雑なものだ。
- 私たちは子どもよりも前にある。
だから、私たちは子どもの存在に対して責任がある。あるいは責任を否定する。
- 私たちは子どもとともにある。
だから、私たちは子どもの存在に対して憐れみをもつ。あるいは断ち切る。
- 私たちは子どもに付き従ってある。
だから、私たちは子どもを愛する。あるいは愛から遠ざかる。
責任も憐れみも愛も、すべて子どもによってもたらされる。
運命は子どもが伝えている。
私たちは子どもにおいて結晶する
子どもによってもたらされた運命に対して、私たちは応えなければならない。
YesであれNoであれ、私たちは応答する。
この応答にすべてがある。自らのすべてを以って、その応答を証だてなければならない。
「私は子どもを愛している」にも「私は子どもを愛していない」にも、つねに「本当に?」という問いが私から立ち上る。
私たちはつきまとう問いに対してつねに自らのすべてを尽くして応答し続ける。
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
ここにおいて、私たちの存在のすべてが現れる。
私たちは存在のすべてを賭けても誓うことができない。そこにはつねに「本当に?」がつきまとうからだ。
しかし私たちは誓おうとする。自らの応えを結晶させようとする。
その応えを結晶させることが赦されたとき、私たちは必然を受け取る。
必然のもとにおいて、私たちは正しく親になる。
親になること、ならないこと
このように考えると、私はまだ親になっていない。
私はまだ「本当に?」に応え続けなければならない。私は親になろうとしている。
親であることを証だてることは人智を超えたことだ。
親は、子どもとの関係のすべてに聖なるYesを答えたひとだ。
そのような人は私たちの祝福を超えている。
親でないことを証だてることも人智を超えたことだ。
その人は、子どもとの関係のすべてに畏るべきNoを答えたひとだ。
そのような人は私たちの非難を超えている。
信仰としての育児
私は子どもと生きていく過程において、聖なるYesを目指さなければならない。
私は責任において、憐れみにおいて、愛において、私自身を捧げなければならない。
親を目指すものにとって、育児は信仰なのである。
私は信仰を保てるだろうか。しかし立ち止まることは私によって許されない。
私が親でなかったら、わが子の親はいなくなってしまうのだから。
*1:心理的に「さておき」と言うことはできる。しかし子どもは私たちにおいてその現れを失うことがない