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tsukaki1990@blog

わからないことを分からないまま書きたい

偶然を飛び越えろ-愛、憐れみ、責任

本の紹介 生き方

はじめに

夫婦の完成形は「生まれ変わってももう一度結婚する」だと思う。

馴れ初めはつねに偶然に支配されている。

あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま

それがいつの間にか「私たちは出会うべくして出会った」と思うようになる。
これは素晴らしいことだと思う。

これは夫婦に限ったことではない。
「この仕事が天職だ」という人もいるだろう。
ある出来事をきっかけに自分の使命を感じ取る人もいるかもしれない。

これらもすべて出会いは偶然の産物だ。
その仕事は、第一志望ではなかった企業でのものかもしれない。
その出来事はたまたま知人の紹介で行ったイベントでのことだったりもする。

私たちの生活には、偶然があふれている。
しかし、それは「出会うべくして出会った」必然になることがある。

今回は、必然とはどのようなものか、偶然は何によって必然になるのかについて考えたい。

必然の与えられかた

必然が与えられる仕組みは、通常の認識を得る場面とは違う。

私たちは必然を自覚することなく知覚の視線を投げかけることはできない。
私たちが自覚なしに視線を投げかけるとき、それはまだ偶然としてある。

また、私たちは「~としての何か」を認識するとき

  • 「ある程度~である何か」
  • 「~になりつつある何か」

を知ることができるが、必然はつねに必然「である」もの、必然「であった」ものとして知られる。

そして、偶然が必然に変わったとき、私たちの知覚は否応なしに必然に向けさせられる。
その時の認識は「これはすでに必然であった」という形をとる。
つまり、偶然であったものが必然に変わったのではなく、最初から必然であったものとして認識が改められる。

必然のはたらき

必然は私たちの現在を変える。
必然は私たちのあり方を「偶然に囲まれたもの」から「必然のもとに導かれるもの」へと書き換える。

必然は未来のイメージを変える。
必然は私たちの生を「そのためのもの」として書き換え、未来は必然によって駆動される。

また、必然は過去のありかたも変えてしまう。
必然は私たちの過去の生を「そのためにあったもの」として書き換え、過去は必然によって彩られる。

このようにして、現在・未来・過去のすべてが必然のもとで意味を変える。
すべては必然に収束する。

必然へ向けて飛ぶために

すべての「かつてそうであった」を「わたしはそれを欲した」に作り変えること。-これこそ救済の名に値しよう。

では、必然はどのようにしてもたらされるのか。
ニーチェならば意志というだろう。私たちがそう望むから、必然になるのだと。
しかし、必然はつねに必然「である」と考えると、必然「になる」とする立場はとれない。

では、私たちが必然に飛び込んでいくとすればどうだろう。
偶然に満ちた世界を抜けて、すべてが必然に収束する世界に飛び込むとしたら。

ここでは必然を求めている必要はない。
他のものを求めて飛び立った結果、終わりとして必然に至るのだと考えることは可能だろう。

では、私たちを飛び立たせるものはなんだろうか。

通常の知覚ないし意思であってはいけない。それは偶然の世界のものだ。
自己を目的としたものであってはいけない。必然は私のなかになく、世界にあるものだ。
何かのための手段であってはいけない。必然は到達すべきものではなく、飛ぶことの終わりにあるものだ。

この条件を満たすものは3つあるように思う。
それが、愛・憐れみ・責任だ。

意志によらず運命によって

この3つには共通項がある。
すべて、知覚されるときにはすでに実現している。現在において完了している。
「今から」「ある時から」ということは出来ない。
つまり、

  • 何かを愛するとき、それはつねに「愛している/愛してしまった」という形をとる。
  • 何かを憐れむとき、それはつねに「憐れんでいる/憐れんでしまった」という形をとる。
  • 何かに責任を感じるとき、それはつねに「責任がある/あった」という形をとる。

また、これらは「愛そう」「憐れもう」「責任を感じよう」とすると本質を外してしまう。
「愛さずにはいられない」「憐れまずにはいられない」「責任を感じずにはいられない」のが本質だ。

だから、この3つは運命によって私たちに与えられる。

  • 私は/あなたはそのことを愛することになっていた。
  • 私は/あなたはそのことを憐れむことになっていた。
  • 私は/あなたはそのことに責任を持つことになっていた。

運命と運命のあいだで

運命に直面したとき、私たちはそれを引き受けるか逃れるか、選ぶことができる。
これは知覚や意志の前にある、世界に対する態度の表明だ。

引き受けるにせよ逃れるにせよ、単純に答えるだけではない。態度に相応のコミットメントが求められる。
運命を引き受けることで終わってしまう生もあるし、逃れることで長続きする生もある。

いずれにせよ、運命と向き合うためにはそれに耐える力が必要になる。
この力はどこから得られるか。それは別の運命によってではないだろうか。

私たちは運命と運命の綱引きの中で生きている。
その綱引きの間で私たちが行き着くところに必然がある。

運命は神話のなかにある

私たちを必然にもたらす運命は、私たちの認識を超えている。
私たちに出来ることは、与えられた運命に態度を表明すること、そしてその終わりに必然へと達することだけだ。

私たちを超越したところで催される綱引きは、まるで神々の争いのようである。
この意味で、私たちは神話の中を生きている。

必然をもたらしているのは、神話を構成する神々なのだろう。

思い起こしていた文献

この記事では「愛とは」「憐れみとは」「責任とは」について書いていないので、そこの補完を主な目的として。
原著にあたってなくて解説を読んだ/聞いた本も含めてます。

ツァラトゥストラかく語りき

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

すべての過去をわれ欲す=意志のもとに還元している。
今回は成り行き上その態度を取らなかった。

四つの愛

四つの愛[新訳] (C.S.ルイス宗教著作集)

四つの愛[新訳] (C.S.ルイス宗教著作集)

愛とはどのようなものかを考えるには最適の本。
自然的愛(宗教的でない愛)のことが書いてある。作者は『ナルニア国物語』のひと。

人間不平等起源論

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

憐れみを考えるようになったきっかけの本。
「放っておいても憐れんでしまう」というのがポイントなのでは。

責任という虚構

責任という虚構

責任という虚構

個人に責任を紐付けようとするのは無理があるのではないか、という心理学的観点からの批判的考察。
ユダヤ人問題の最終的解決や死刑制度の問題などに絡めているので、その面でも勉強になる。

暴力の批判的検討

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

「神話的」という単語だけ拾ってきてしまった。
見出しに出したもの含め、複数のテキストが掲載されている。

イーリアス

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

神が人間の生活に入り込んだ神話的世界観を味わうならこれ。
なのだろうけどハードルが高い。(私は講義でふんわり習っただけ)

と思ったら、柔らかくしているのがあるみたい。

ホメロスを楽しむために(新潮文庫)

ホメロスを楽しむために(新潮文庫)