忘れることと集めること-普通と標準
はじめに
「普通だと思ってました」「いや、それ普通じゃないよ」
こんな会話が時々ある。どちらの立場にも立ったことがあるけれど、「そうか、これが普通か」という合意に至ったことはないように思う。
大体は、「そうかなぁ」「そうだよ」的に、お互いの意見は交わることがない。
コミュニケーションが成立していない。
私たちは普通に暮らしているのに、普通が問題になった途端にそこには断絶がある。
これはどうしてなのか。
今回は、普通はどのように普通なのかについて書く。
2つの普通
コミュニケーションが成立しないとき、そこには現れている意味の食い違いがある。
はじめに示した会話においては、
- 自分の普通を表すとき
- 他者の普通を評価するとき
の2つの局面で普通が使われており、それぞれに意味が異なっている。
普通には意味が2つある。
「普通だと思った」は何を表現しているか
まずは、自分の普通を表すときを考えてみる。
自分の普通を表現するとき、つねに「普通だと思って『いた』」と表現される。
「今から普通だと思い始める」「今後、普通だと思うようになる」とは言わない。
普通は現在においてすでに存在しているもの、完了形で表現されるものだ。
では、普通だと思っていた、その始点はどこにあるだろう。
私たちはこの問いに明確な答えを与えられない。
普通でないものが普通「になる」のではなく、普通はつねにすでに普通「である」。
では、私たちの普通はどのようにしてあるのか。
ここから発想を変える。「ない」ものが普通なのではないか。
私たちは日常を暮らすうえで、意識していないことが多い。
意識していないことが意識にのぼるとき、私たちは驚く。
例をあげる。
- 地震が来ると私たちはびっくりする。なぜか。地面は揺れるものとして意識していないからだ。
- ブレーカーが落ちると私たちはびっくりする。なぜか。電気は途切れるものとして意識していないからだ。
この例は次のように表現することができる。
- 地震が来ると私たちはびっくりする。なぜか。地面は普通揺れないからだ。
- ブレーカーが落ちると私たちはびっくりする。なぜか。電気は普通途切れないからだ。
普通はこのようにしてある。私たちが意識していないこと、それが普通の正体だ。
だから、「普通だと思っていた」というとき、私たちは実は思っているのではない。
それは意識していなかったことを意識する羽目になったことへの驚きの表明だ。
この意味で、普通は忘れられている。
意識というフレームの外にあるものが普通のものである。
「それ普通じゃないよ」は何を表現しているか
対して、他者の普通を評価するときは事情が異なる。
私たちは「それは普通ではない。なぜなら~」のように理由を説明することが一応できる。
では、理由には何が来るだろうか。
- 自分も意識していなかったけれど、そのようにしたことがないから。
これは互いに驚きを表明しあっている状況だ。そこに意味の伝達はない。
だからコミュニケーションは成立しない。
他にも理由に来るものはあるだろう。
- 他のみんながそうしないから。
- 通常の人はそうしないから。
およそこの2つのどちらかではないだろうか。しかし、ここには「通常」という概念が残っている。
通常と普通はふだん同じような意味で使われているから、「普通でないのは普通でないからだ」としか言っていない。
だから、ここでは前者のタイプについて考える。
他のみんながそうしない、というとき、私たちは数を当てにしている。
自分の手元にあるサンプルの中で最もボリュームのある層にあてはまるかどうか、を普通の根拠としている*1。
このときの普通は、標準といった方が誤解がないだろう。
デファクト・スタンダードと言うときのスタンダードは、まさにこの意味だ。
私たちは他者の普通を評価するとき、まずは自身の手元のサンプルを集めて、そこでの標準と他者の普通を比べている。
まとめ
私たちの普通をめぐるコミュニケーション不全には、次の2つのタイプがある。
普通-普通型 | お互いの驚きを表明しあうだけで、そこには意味の伝達がないタイプ |
普通-標準型 | 一方は驚きを表現し、他方は問題となっている行為を自分のなかの標準と比べた結果を表現しているタイプ |
コミュニケーションが何とか成立するのは標準-標準型へ移行したときだ。
標準-標準型 | 自分の標準と相手の標準を比べて、どちらがより標準的かを評価するタイプ |
標準-標準型のコミュニケーションに移行しても、その過程ではいつでも普通論争が再燃しうる。
普通をめぐるコミュニケーションは成立するのが奇跡的だ、とも言える。
*1:たこ焼きには様々な味付けがあるものの、ソースを使う人が多いから「ソースを使うのが普通である」。