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わからないことを分からないまま書きたい

ダイバーシティの多様性-3つの類型と「公私混同」

はじめに

ダイバーシティの重要性がひろく認められる時代になった。
行政もこんな取り組みをしたりしている。

新・ダイバーシティ経営企業100選

また、社会的マイノリティの包摂も進められており、いわゆる「LGBT」は社会において現在進行形でそのプレゼンスを増している。

一方で、アファーマティブ・アクションのような問題も提起されている。

積極的に差別を是正する措置

これまで不公平な待遇を受けてきた黒人などの少数派の人々に対して、教育や雇用などの機会を優先的に与えること。積極的差別解消政策ともいう。
(中略)
その反面、(中略)逆差別との見方もされている。

アファーマティブ・アクションとは - 時事用語 Weblio辞書

また、女性の社会進出にあたってクオータ制*1を導入する是非についても、わが国ではいまだ結論が出ないでいる。

ここまで書いてみて、それぞれ微妙に話が噛み合っていない。
それは単に私の認識が甘いからというのもあるだろうが、概念の交通整理があまり行われてこなかったせいでもあるのではないか。

今回は、ダイバーシティをめぐる多様性について考えたい。
ひとえに「ダイバーシティ」と言っても、そこには多様な意味がある。

多様性とは何を指すか

この記事では、多様性を「その存在がひろく認められる」くらいの意味で、あまり細かいことは気にかけずに使っている。
細かく、というのは、「ひろく」とは具体的に誰のことか、「認める」とはどのような所作なのか、とかそういうこと。
そこを突っ込まなくても困らないのでとりあえずは置いておく。

何が「多様である」のか?

多様であるといっても、その多様さは様々である。
私とあなたでは「みんなちがって、みんないい」のであるし、男性と女性でも色々と違う。
労働においては、ホワイトカラーとブルーカラーのように異なる役割が存在している。

多様性の類型は、およそこの3つにまとめられるように思う。

個別的多様性 個人と個人の間に差異がある、という意味での多様性
類的多様性(属性的多様性) 社会的/生物学的/政治的など、ある観点からみたときのグループが複数存在している、という意味での多様性
機能的多様性 出来ることや使い方が異なる、という意味での多様性

個別的多様性

これは端的に「あなたと私は違うひとである」という意味での多様性を指している。
その根拠は属性でも機能でもなく、別の存在としてあることに求められる。

類的多様性

これは、「あなたと私は/国籍/勤務先/出身地etc.が違う」という意味での多様性を指している。
その根拠は属性=類似性の違い、つまり「あなたと私はこの点で似ていない」ことに求められる。
ある観点のもとでは同じグループに属しながら、別の観点では別のグループに属しているというのは日常よく認められる。

機能的多様性

これは、「あなたと私は出来ることが違う」という意味での多様性を指している。
「あなたは営業職、私はSE」のような感じ。

これらの多様性は、実現されるべき場面が異なっている*2
また、それ自体が価値なのか、目的のための手段なのかという違いもある。

多様性の使い分け

3類型の多様性はどのように使い分けられるだろうか。

個別的多様性が実現されるべき場面

個別的多様性が実現されなくてはならない場面はあまり思いつかなかった。
例えば何かを表現するとき*3には、「私が」表現しましたというのが大事になる。
(これを「日本国民が表現した」と言われると表現した方も帰属させられる方もいい迷惑)

類的多様性(属性的多様性)が求められる場面

これはいわゆる「社会的包摂」の実現にかかる場面だろうと思う。
社会的包摂における「社会」とは、多様な属性をもつ人々が共存する空間のことだ。
無職でも犯罪者でも、社会の構成員である以上はその属性によって排除されることを許さない、という考え方をする。
また、社会的包摂それ自体が価値としてある。

機能的多様性が求められる社会

これは目的のためのダイバーシティの実現にかかる場面だろうと思う。
たとえば企業活動における「多様な発想」をもたらすためのダイバーシティがこれにあたる。
社会的属性の多様性を企業内にもたらすことはそれ自体価値ではなく、あくまでその結果多様なアイデアがもたらされるからこそ価値がある。

この意味で、女性の社会進出は必ずしも企業の目的に即していない。
「女性ならではのきめ細やかな視点」というのは、端的に言ってセクシュアリティを機能と結びつけた差別的な表現にすぎない*4

また、社会的包摂のある局面では機能的多様性の実現を目指している。
身体的/精神的ハンディキャップを持つひとが、そうでないひとと同等の生活を送れるようにする、という意味での社会的包摂が意識している「社会」は、多様な機能をもつ人々の共存する空間のことだ。
ユニバーサル・デザインが意識する多様性は、機能的多様性のことである。

まとめとこれから

このように、多様性が持つ意味は様々であって、目指すところがそれぞれ異なる。
どの場面についてのダイバーシティを目指しているのかを意識しないと、話が噛み合わなくなってしまう

また、扱いに困るのが「社会的包摂」概念である。
異なる多様性を志向する概念である、という他に、この概念にはもうひとつの難しさがある。
それは、「どの属性が社会にとってレレバント*5なのか」という問題だ。

「社会」の関心-包摂における公私混同

社会的包摂における社会は、類的な属性にせよ機能にせよ「人々」の間で共有される空間だった。
機能についてはおよそ他者から認識できてしまうので*6あまり問題ないのだが、問題は属性のほうだ。

個人の類似性には社会に対して開かれたものと、社会に対して閉ざしておいてよいものがあると考えている。
私と友人の間には趣味嗜好のある領域で共通項があるかもしれないが、それは社会に対して開いている必要はなく、社会から離れた領域で保持しておいてよいものだ。
しかしながら、現在の社会的包摂はその閉ざされた属性をも対象に含めてはいないだろうか。
念頭においているのはまずはいわゆる「LGBT」の「受容」である。社会は本当に受容しなければならないのか?

マジョリティが自分の性的属性を公言しないのは、そもそもその属性が社会にとって意味のないこと、レレバントでないことだからではなかったか。
なぜ「LGBT」は性的指向を公言し、社会における包摂を求めなければならないのか?

かつて社会が閉ざされた属性に関心をもち、それを機能や存在と結びつけた差別的認識を持っていたことは事実だろう。
しかしそれへのカウンターは「受け入れてくれ」ではなく「放っておいてくれ」が正当なのではないだろうか。
これは単に「LGBT」属性をもつ現在のひとびとの意識の問題ではなく、社会的包摂という戦略を立てた過去からの集積によるものだろう。

おわりに

多様性は確保されるべきものである。この認識が社会の構成員に共有されつつあるのは素晴らしいことだ。
今後の課題は、どのように多様性を確保するか、どのような多様性を確保するかという各論を考えるフェイズに差しかかっているように思う。
この記事である程度交通整理はできたつもりでいる。具体的なビジョンの提示は今後の課題としておきたい。

*1:女性に対して一定割合の役職を割り当てること。いくつかの国では法制度として整備されている。

*2:この多様性はどの類型に入るのだろうか?

*3:表現の自由についてはできの悪い記事で書いた

*4:とはいえ、その表現を女性自身がアピールポイントとして使っているところに難しさがある

*5:その存在が成立と関連していること

*6:outputこそが機能である