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わからないことを分からないまま書きたい

失敗する自分探し-述語集め、環境、システムの内部

はじめに

30歳という数字が薄ぼんやりと見えてくるようになったものの、一方で就労期間より休職期間が長くなりそうな予感がある。
そこそこに不安定な気分の中でふと考えてしまうのは、「私はどのような人間なのか」ということだ。

といって、素直に浮かんだ疑問に着手すると痛い目を見る。
痛い目、とは何か。今回はそれについて考えることにする。

問いの検討

「私はどのような人間なのか」に対する答え方としては2通りを想定している。

  1. 「私」が出来ること/特性を列挙し、「私は~が出来る/~な特性のある人間だ」と答える
  2. 「私」の過去にあったこと、現在の身の回りのことを列挙して、「私は~なことを経験してきた」と答える

実際には、この2つのハイブリッドでもって自分を定義することが多いと思う。
たとえば少し前に経験した例でいけば、就職活動における自己PRでは
「私はリーダーシップを発揮することができます。サークルで副リーダ*1を務めてきましたから」
みたいな説明をする人は多かった。

この2つの方法を使えば、他の人に説明する分には事足りる。
だからこそ就職活動で使われる。
しかし今回問題にしているのは自分に対して自分の定義をしようとする場合なので、それぞれ欠点というか、行き詰まるポイントがある。

「私」の出来ること/特性を列挙する=述語集めの抱える課題

自分にはこれができる、あれもできると考えていくことは、「私は~だ」という述語を集めていくことといえる。
述語集めは取り掛かりやすいのだが、「これで全部」という境地になかなか達しない。
達しないのには理由があって、他のひとと自分の間の決定的な分かれ目がないからだ。

つまり、「私は~で、~で、...(中略)...、~である」としたときに、その「私」と代替可能な「ほかの誰か」を想起できる。
いやいない、と思っても「ではどの述語が決定的なのか」と問われると困ってしまう。

「私」の過去や現在を列挙する=環境による定義の課題

自分にはこんなことがあった、あんなことがあったと考えていくこと、環境からアプローチしていくのはもっと根本的な課題がある。
環境のどこに焦点を当てるか、という選択において、定義したい「私」が先取りされてしまう。

「幼いことはきかん坊だったけれど、優しく見守ってくれた教育環境のおかげで今がある」というような自伝的記述がある。
一方で、「あいつは小さいころから大人の言うことを聞かず、今でも社会に迷惑をかけている」ともいうことが出来る。

どちらも「小さいころは素直に大人の言うことを聞かなかった」というフレーズを使っているのに補強されるエピソードは真逆になっている。
過去をどう見るかは、現在において何について考えているかによって決まると言っていい。

現在の状況については現れがやや異なるがその根底は同じだ。
私たちはつねに周囲からの意味を見聞きしている。(何ヘルツの音ではなく、何かの音、というように)
意味を持たないものは切り捨てられるのだが、その意味を与えるのは「何について」という動きだ。

自分の定義について環境からアプローチするとき、「何について」が以前にある。
それを自覚してメタ的に考えるにしても、そのときも「何について」は思考の前にある。

まとめ

自分の述語を集めるにしても環境からアプローチするにせよ、それぞれ痛い目をみることになるのだった。
前者では主語が代替可能であることによって。後者では探索のフレームという形で内容を先取りしており、平面的にしか進捗しないことによって。

この困難は何から来るのか。2つの方法の共通項が答えとなるように思う。

述語集めはどのようなoutputを出せるのか、という点を考えている。
環境からのアプローチはどのようなinputがあったのか/あるのか、という点を考えている。

しかしながら、定義したいのはinputとoutputの中間にあるシステムの内部なのだった。
だから、私たちは「痛い目」を見ることになる。決して近づけない方法で着手しているのだから。

今回は問いの立て方が悪いことによる失敗を考えた。
では、どんな問いが正しい問いなのか。を考えなければならないがあんまり長いのでここまでにします。

*1:なぜかリーダではなく副リーダの人に出会うことが多かった。これは「副リーダのような役割」とかってのも含めてるからきっと水増しの要素もあるんだろう